- Masayoshi Konishi
中国子連れ留学③
(3)いざ中国大陸へ_2

1989年、クリスマス・イヴ、日本から中国に香港九龍(クーロン)駅を出発し、列車を降りると橋を歩いて渡り、入国審査をうけ、深圳に入った。
先進国で生活してきた私にとって、そこは別世界だった。
そのころの深圳はまだ開発される前のことで、今のように車も高層ビルもほとんどなく、大型リヤカー(いわゆる人力車)と自転車が庶民の交通手段だった。
そこで真っ先に困ったことは、香港で何とかやり過ごした私の稚拙な英語も、日本を発つ前に覚えてきた二言三言の上海語も、ここ深圳の人々にはまったく通じなかったことである。
上海人のSS氏に事前に教えてもらった中国語は、標準語(マンダリン語)ではなく、上海語だった(ex:「你好」ニーハオ/ノンホー)。
一方、深圳は広東語しか話さず、英語はもちろん、標準語もできず、ましてや方言の上海語は一切通用しない。
途方に暮れてしまったが、そこは漢字の国、公衆電話のおじさん(当時電話は普及しておらず、売店が有料で電話を貸し出していた)を見つけ出し、いきなり筆談を始めた。
幸いなことに、書道家であった私は、繁体字(旧字体)を知識として持っていたので、深圳人と筆談によるコミュニケーションをとることができ、この繁体字はその後の私の上海生活を助ける最大の武器となった。
こうして、公衆電話のおじさんに頼んで、日本にいるSS氏に国際電話をかけ、深圳の銀行に勤めているSS氏の友人Aのところに誘導してもらい、銀行へと向かった。
銀行で、友人Aとは英語で会話をし、上海へ到着するまでの手順と段取りを複数の紙に書き出してもらい(もちろん中国語で)、見せる相手とその順番を指示された。
友人Aに、深圳駅で列車に乗るまで同行してもらい、乗ったら車掌に1番目の紙をみせる。次に、広州駅で降りたら、駅員に2番目の紙切れを見せ、タクシー乗り場を教えてもらう。
そしてタクシーの運転手に3番目の紙切れを見せ、広州空港ホテルに連れて言ってもらう。
ホテルのフロントでは、4番目の紙切れを見せチェックイン。
翌日ホテルの指示にしたがって広州空港へ向かう。
広州空港についたら、5番目の紙切れを見せ、空港でチェックイン。
上海へ飛ぶ便の搭乗口まで誘導してもらいて飛行機に乗り込む。
この一連の誘導は全て、SS氏の友人Aの手配によるものだった。
この時私は中国の「朋友的朋友就是朋友(「友人の友人は自分の友人」)という中国人の優しさを初めて受けた。(中国人に助けてもらうその①)
もしこの紙切れがなければ、親子4人、言語も一切できず、上海にたどり着けたかどうか。。。
今考えると自分の無謀さと、中国人の優しさを改めて感じる。
また、当時の中国はどこでもタクシーに乗る前に必ず値段交渉をする習慣があったが、そんなことなど知らないまま広州駅でタクシーに乗り込んだ。
あの時のタクシー運転手はとても優しく、空港ホテルで降りた後もホテルのボーイなみに部屋まで荷物を運び入れてくれて、感激した。
「中国人ってなんて親切なのだろう!」と。
しかし、その親切は実は法外なタクシー代を払った見返りだったとはあの時は知る由もなかった。
翌朝上海へ向かった飛行機に搭乗。
いよいよ目的地の上海だ。
機内で心浮き立たせ、誘導してくれた銀行マン、列車の中での親切な車掌さん、(法外なタクシー代を払っての)タクシーの運転手、など中国人の優しさを噛み締めていた。
ただ一人の女性客室乗務員の服務態度は、そんな優しい気持ちを一瞬で無にした。
失礼を通り越し、サービスマイナス1,000点ぐらいだった。
その乗務員は、「なんで私があんたの世話をしなきゃなんないの!」と言わんばかりに、まずい点心(おやつ)とお茶を無言で叩きつけるようにテーブルに置き、その後上海に到着するまで、一言も口をきいてくれることはなかった。
深圳、広州での親切とは打って変わり、初めて知る中国人の横暴な振る舞いだったが、このマナーの悪さは、これから先、いやと言うほど受け続けることとなる。