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  • Masayoshi Konishi

中国子連れ留学⑤

(5)驚きいっぱいの上海生活_2


中国語の先生の名前は劉方先生。

劉先生は、奥さん(張先生)ともども、滞在期間4ヶ月間の間の慣れない中国生活を助けてくれた、今現在も友好を続けている信頼できる上海人の一人である。

また2回目の訪中で私の恩師となる水墨画家・蘇春生教授を紹介してくれた恩人でもある。

 


駐在する日本人から様々な情報を得て、ようやく自炊生活が始まった。

まずは食料の買出しに、早朝ホテルから近い青空市場へ出かけた。


市場でもっとも驚いたのは豚肉コーナー。

そこには豚の頭が上から吊り下げられ、トン足が台の上に並べられ、ばら肉・霜降り・ヒレ肉と丁寧に切り分けられることはなく、大きな塊のまま売られていた。

塊にはさらに油(ラード)・皮(産毛)までついていた。

この他、忙しそうに走り回りながら買い手を待つ鶏やチャボたち、ピチピチ飛び跳ねているフナや鯉やブラックバスなどの河魚、その野性的な光景は、私を驚かせただけでなく新鮮かつ刺激的だった。


まずは兌換券で、市場の農民に支払おうとした。

だが、そもそも野菜も魚も肉も単価がわからなかったので、兌換券100元と50元、そして10元を農民に広げて見せたが、当時の農民は兌換券を見たことも聞いたこともない(なんせ外国人が市場に買い物に来ない)。

彼らは兌換券を手に取り、裏表と観察した結果、「これはお金じゃない、偽物だからこんなものはいらない!」と受け取ってくれない。

そこで、手元にあった人民元を一通り差し出すと、「そうそう、これこれ」と嬉しそうに必要金額をこちらの手の中から引き抜いた。

ただ小銭のお釣りをもらった記憶がない。

もしかしたらここでも、親切さの中にお金をくすねられたのだろう。

調味料などは、日航ホテルで買い込んだ。

日本食材のお店では、調味料のほか、日清即席ラーメンなどの食材も売られていた。

日本では当時の定価70円で買えるものが、そこでは350円ほどで売られいた。

米は配給米で、配給券のない私たちは、花岡さんに分けてもらって手に入れた。

こうして、ホテルのトイレの横の洗面台に、貸してもらった炊飯器と熱コンロで自炊が始まった。

トイレでの調理だったが、日本食に飢えていた私たちにはありがたみしかなかった。

ちなみに、息子がその当時食べれたものは、ホテルのフライドポテトとM&Mのチョコレートのみだった。

自炊を始めてはみたものの、ホテルでの調理はやはり限界があった。

時には外食を試みるも脂っこさと八角や花椒(山椒)など日本ではあまり使われない香辛料が私の鼻について仕方がない。油は大豆油を使っていた。

この大豆油と香辛料の香りは当時上海空港を降り立ったところから町全体に漂い、どんな料理にも充満していた記憶がある。

現在はほとんどしなくなっているが…。

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