- Masayoshi Konishi
中国子連れ留学⑦
(7)留学の目的を開始_2

先生宅でのお昼は、先生の手料理が出された。
私と息子は中国の油料理に体が耐えられず、油を見るだけで吐きたくなった。
先生の手料理も味付けは決して悪くはなかったが、油に耐えられず、3回目あたりから、おかずには手をつけず、食べないのは失礼と思い、ご飯にお茶をかけて流し込んだ。
先生は心配そうに見ていたが、無理強いしなかったのが救いだった。
一方、SS氏宅ではおもてなしで小豆粥をよく出された。
その小豆粥には、砂糖が山ほど入れられていた。
子供の頃からお粥は病気の時のみ食べるもの、と思い込んでいた私は、病気でもないのにお粥を日常で食べること、そしてそのお粥に砂糖を入れることに驚くと同時に、受け入れられなかった。
その後お粥を食べれるようになるのは4年の月日がかかった。
毎日中国語の先生について中国語を学び始めたとはいえ、いきなりペラペラ喋れるものではない。
そこで書法の先生とは筆談で意思の疎通を図った。
お互い書家として旧字体(繁体後)を知っていたため、会話で困ることはなかった。
当時の中国人の服装は、経済開放を80年代に打ち出したとはいえまだまだ自由化経済は活発化しておらず、上海市民の半分は中山服(人民服)を着用していた。
またそれ以外の服を着ていてもカーキー色か灰色がかった茶色などのジャンバーだったので、顔かたちの非常に似通った日本人と中国人の違いは、服装を見れば一目瞭然だった。
89年から90年にかけての上海は、日本の戦争直後を彷彿とさせた。
もっとも戦後生まれの私は日本の戦争直後をこの目で見たわけではなく、母親世代から聞かされてきた話での想像でしかなかったが、当時日本とは40年の開きを感じた。
進んだ国から遅れている国へとやってきたが、いろいろなことが物珍しく新鮮に見え、結構楽しかった。
食生活を除いては。。。