- MIHOKO Konishi
中国子連れ留学①

(1)まさかの中国留学
初めて中国に渡ったのは1989年の年の瀬だった。
正直言って中国とソ連だけは絶対行きたくないと思っていたし、他の若者と同じように欧米志向だった私が中国行きを決意し、実行するとは思ってもみなかった。
しかし、その年の中国人留学生との出会いが、その後の私の人生に於ける中国との長く深い縁をもたらすこととなった。
当時20代の私は書道を本格的に学ぼうと思い、ある書道学校に通い始め師範の資格を取ると、小さな書道教室を始めた。書道といえば中国から伝わった伝統芸術のひとつであるが、中国に行こうなどとはまったく考えていなかった。
ところが89年の春、一人の上海人(SS氏)と出会い、私に「本場の書道を見に、中国に行くべきだ。」と言われ、私の心は大きく揺らいだ。
日本書道の体質に疑問を感じ、また書のタブーである色彩を使っての表現ができないだろうか、と考えていた私は、中国に答えが見つかるような気がした。
さらにその上海人SS氏が私に中国絵画の一部を教えてくれたこともカルチャーショックだった。
なぜなら、この中国絵画はそのころ私が強く惹かれていた水彩画と共通点が多く、そしてこの中国絵画こそまさに色彩を使った「書」そのものに他ならなかったからである。
1989年5月中旬、SS氏から「6月に一時帰国するから一緒に行こう!」との誘いを受け中国行きを決心するが、不運にも6月に天安門事件が起こり、この決意は敢え無く終わるかに見えた。
しかしチャンスはクリスマスプレゼントのように、突然降って沸いた。12月24日遂に中国行きを決行することとなったのである。
こうしてみると決意だの決行だのと、大げさな言葉が並んでいるが、天安門事件直後の中国は混乱と後退を余儀なくされ、日本人もほとんど強制帰国、現地の情報は皆無に等しく、中国関係の手引書は、どの書店でも探せなくなっていた。
SS氏も中国公安局から政治活動者として目をつけられており、ブラックリストにも載っていたらしい。彼は一時帰国を断念せざるを得なかったため、私も中国に行けなくなってしまったのだ。
周囲からもなぜ中国に今?と疑問視され、逆風しか拭いていない中での「決意と決行」だったのである。
そうして中国行きをあきらめることなく、香港経由で観光ビザを取得し、同年12月25日深圳に入り、中国大陸への第一歩を踏み入れた。
まさかこの第一歩がこれから三十年に渡る、数々の感動とトラブルの序章に過ぎないとは、その時は予想さえもしなかった…。